| < 前のページ | 次のページ > |
![]() ※公演終了まで、この記事がトップにあります。 去年の4月に始めた、小鳥公園シリーズの第二回目をやります。 小鳥公園は、鳥公園が本公演とはまた別に、文学作品を舞台化していくシリーズです。 「単線的に展開していく文学の表現を、どうやって空間にひらいていくか?」を考えます。 第二回は、平松洋子さんのエッセイ集『野蛮な読書』から着想をいただきました。 この「すがれる」という作品は、 2月に大阪で、芸創CONNECT vol.5というコンペティションに参加して、15分ver.を、 3月には北九州に一週間ほど滞在して制作し、40分ver.を発表しています。 ひとつの作品と長く関わってみたい。 お客さんに立ち会っていただきながら、 発表してはまた稽古して、作り続けてみたい。 と思って、鳥公園では初めての三都市ツアーを企画しました。 大阪と北九州で、すでに完全に別モノになってしまったので、 横浜公演がどこに着地するのか全くもって分かりませんが、 それぞれの土地でつくり、お客さんに立ち会っていただいた時間が、 流れ込んだ作品になると思います。 こういう作り方は、きっともうなかなか出来ないと思います。 たくさんの方に見届けていただきたいです。 お待ちしています! :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 2012年5月24日(木)~28日(月) BankART Studio NYK / NYKホールにて 作・演出 : 西尾佳織 出演 : 森すみれ(鳥公園)、若林里枝、吉田圭佑、武井翔子 【タイムテーブル】 5月24日(木) ★19:30 25日(金) ★19:30 26日(土) ★14:00 / 18:30 27日(日) 14:00 / 18:30 28日(月) 14:00 ★の回は、終演後に「すがれる」北九州版の映像上映あり! (上映時間約40分を予定) 【チケット料金】 一般前売 : 2500円 一般当日 : 2800円 学生前売 : 2200円 学生当日 : 2500円 初日割引(5月24日(木)19:30の回) 一般前売 : 2200円 学生前売 : 2000円 (当日券の初日割引はございません) ※学生チケットをお求めの場合は、当日受付にて学生証をご提示いただきます 【ご予約方法】 ① ↓ のURLから、西尾扱いのチケットとしてご予約いただけます。 http://ticket.corich.jp/apply/35752/001/ ②直接メールいただくのでも勿論承ります! 【会場】 BankART Studio NYK / NYKホール 〒2310002 神奈川県横浜市中区海岸通3-9 045-663-4677 横浜みなとみらい線「馬車道駅」6番出口[赤レンガ倉庫口] 徒歩4分 http://www.bankart1929.com/ 【演出ノート】 すがれる:盛りを過ぎて衰え始める。風化し始める。 植物が、冬をむかえて枯れていく。 「すがれる」は、漢字では「末枯れる」と書きます。 私たちはみんな、スエ・カレル。 終わりに向かう、その変化の始まりに気付いた人は、 一体どれだけの時間、その人を(あるいは物を、土地を) 見つめていたのだろう。 これは、ひとつの役割が終わり、形が失われ、その後にも続いている時間について、 それから過ぎゆくものへの、まなざしについての作品になる予定です。 【鳥公園ホームページ】 http://birdpark.web.fc2.com/
新所沢駅の階段下で別れてわりとすぐ振り返ってもう一度見る。
もうこちらを見ていなくて歩き出していて、でも速度が遅いので、横顔を見ることになった。 一緒にいる間は、血がめぐっている感じ、顔の筋肉もよく動いていたけれど、遠くから見ると近くより硬い。 目もグレーに見えた。 小さい部分は動いていても、全体のダイナミクスみたいなものは弱まっているんだ、と思った。 西友に入るまで、見ていた。
棚に、色々上げて、言うべきことを言う。
みっともないぐだめきを、書きたくなってしまった。
少しずつ少しずつ自分と人に対する検閲が厳しくなってきてしまってるように思う。 自分の言葉が固まってきている気がして、とても恐い。身体も。 例えば潔くありたい。 と思うとき、そこには「今、潔くない」が含まれている。 と思うとそれを、言わずにいるのが潔いなと思う。 それで色んな、飲み込んでいる言葉があって、 だけど禁止は、苦しいね。
公演で北九州に行って、小倉の人が北九州について語る確かさを見ていて、
「自分の土地」の「無さ」を感じた。 あちらでの公演の時点ではそれが、私にとっての誠実さに思えた。 でも東京に帰ってきて、 「私には『自分の土地』ってものが無いんですよね」と言い続けるのは オカシなことに思えてきた。 無いこたぁない。 「自分の土地」と思えるかどうかなんてことよりもずっと先に地面があって、 アンタ(私)その上で生活してるんじゃないの、と思えてきた。 何かの「無さ」を頼りに自分を示すというのは、甘えている気がする。 それは、どこかに軸足を持って生きている人の成した具体的な物事を借りて、 漂っているだけなんじゃないか。 という気がしている。 (そして私は、どうも浮かんで漂っていることを妙に尊く思ってきたかもしれない) 最近、孫の人たちのことを考える。 孫の人たちというのは、自分の血の繋がった孫とは限らなくて、その世代の人たちのこと。 母が、一人っ子なので、母方の名字は私がムコ養子を取らなければ継がれない。 名前のことはまあいい。 でもお墓はどうなるのかな、と、祖父母は心配しているみたいだ。 母に連れられて、私と弟は母方のお墓に参る。 私と弟も、子供が生まれたらたぶんその子らを連れて行く(と思う)。 でも孫はどうだろう。 「おばあちゃんの、おじいちゃんおばあちゃんのお墓参りに行ってね。お願いね。きっとね。」 と言っても、行ってくれるのかな。どうかな。 ・・・みたいな感じで、 自分の声とか、肉体の、届く範囲のことを想像するというのが、最近起こっていること。 届く範囲のことを考えて、その先の、届かない範囲のことを考える。 軽やかさを、どうも恐れています。 印象として危険な感じを持っている。 いつも身軽にしておくよりも、全部ひっつかんで、出来るだけ全部ひっさげて行きたい。 すると大変愛憎入り混じって、そういうの、望んでいるのか!?って自分でも分からないのだけど、 ただどうも毎度、そういう風になってまう。
言わなくてもよかったこと、言いたいわけではなかったことをたくさん言ってしまい、
言いたいわけではなかったであろうことを、人にもたくさん言わせてしまった数ヶ月だった。 一度言葉が対流しだすと、それが更なる言葉を呼び込んでしまって、人間にはどうしようもなかった。 こういうことは初めて起こった。 いつも、起こってみて初めて知ることばかりだ。 学習をする。 その経験をもって二度目を迎えられたらいいのだけれど、 二度目はないし、 二度目はちょっともうたくさんという気持ちもある。 だけどもし、 「一度は数に入らない」のだとしたら、 人との間に何かを重ねることって、できるのだろうか。 わからない。 ![]() 何度も何度も更地になるなーということ考えて、 眠れなくなった。 なにか学んだり積み上げたりということ、 一体私にできているのだろうか。 今日はおばあちゃんと大往生の話をして、 「穏やかな死には穏やかな家がいる」 と気がついた。
胃の痛みが続いている。
今まで胃が弱い人の辛さがよく分かってなかったな、私はどうして自分の身に起こってみないとここまで分からないんだろうな、 と三分くらい思ってたけど、 自分も胃痛を経験したからって人の胃痛が分かったかは、やっぱり分からないと思った。 だけど人間なんてそう変わらないんじゃないかという気もしていて。 基本的な体のつくりは、つまり先天的に持っているものは、(もちろん違ってはいるけど)そう違わないんじゃないか。 大きく違うのは、体の使い方や、心の感じ方? それはきっと、その人が過ごしてきた時間によって形づくられているんじゃないか。 そこに興味が向いている。 や、もしかしたら、感じ方だって大きくは違わないのかもしれないけれど。 とにかく、そこ。 そのひとつひとつの特殊に、目を向けたいと思っている。 それが出来ないと、これから作品をつくり続けられないとも感じている。 「わかる」って何だ? (とりあえずそれは、同化するということではないと思うのだけど) ということと、 他人は変えられない ということと、 変わりうることは希望 ということが、 なんか考えなければなーということとして頭の中にある。 文章が、どんどん書けなくなっている。 たぶん言葉と概念は増えていて、だけど増えた道具を使いこなす練習が、追い付いていない。 といって練習を怠っている、とかいうことでもないように思うんだけど、本来は大学生あたりでこれを迎えているはずだったのかな? しかし迎えられなかったのだなぁ。 一度どこかで、書けなくなるかもしれない。
久しぶりに風邪をひきました。
熱ばかり高くて他はちっとも辛くないという、よく分からない症状でしたが、 たぶんわりと長いスパンで、私は疲れているのでしょう。 小さい頃は、体=わたし だったので、 熱が出るととにかく「お母さん助けて!大変!わたし死ぬ!!」という一大事だったけれど、 今は、「あー・・・ちゃんとメンテナンスしないと当然ガタが来るよね、悪かったよ、ごめんな」と わたしが体をあやすような気分です。 切り離せもしないのだけど、同志とでもいうか。 自分は自分と別れられないからなー、とよく思います。 そんなこと、本谷有希子さんも書いていて、 その後ほかにもそう言っていた友人がいて、 だからこれはけっこう多くの人が思うことなのかもしれません。 (それか、演劇の人がよく思うのか。) 何に疲れているのか、 地震や公演や近しい人との不和や自分一人の体や気分やいろんなこと、あるけど、 「あれに」よって「こういう」疲れが出たという考えを遠ざけたい。 というのが、今あります。
感情がどれかよく分からないけどまあそんな感じのもの、あまりにも触れられないまま放置されると、鈍化して物質になってぶでん、とただその場所を占め続ける状態になって、次第にその感情(だったもの)を引き起こしてた状況に遭遇するのがなんやとりあえず億劫、ということになるんじゃないか、なってるんじゃないだろうか。人の中で。
|
カテゴリ
以前の記事
2012年 05月
2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 お気に入りブログ
最新のコメント
Links
ライフログ
ファン
|