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2010年 07月 02日
頭の中にあるのが、具体的にすると変形、崩壊しそうなことばかりなのですが、
それでも、自分が何かをする術は具体的にすることしかないので、 そしてその術の中で、一番、これでも流暢に使えるのは言葉だと思うので、 言葉に表してみる。 最近、クロムモリブデンの「恋する剥製」と競泳水着の「女ともだち」を見ました。 どちらも面白かったです。 競泳水着は、初めて面白いと思いました。 たぶんわりと長い間、「何でも出来る・どうとでも出来る」と思っていたことに気付きました。 それは、私が、ということではなくて、誰でもがそうだと思っていたのですが、 実際は全くそうではなくて、 いざやろうとすると、「こうしか出来ない」ばかりです。 何でも、どうとでも出来るはずだと思っていたので、 「どうすればいい?どうするべき?」というのを予め知ってから始めようとしていて、 自分には何が、どう出来るのかを探ることに力を注いでいなかったのだ、と思います。 でも本当は、どこへ向かうべきか、漠然と方向くらいは見えているにせよ、 着地点は、作っている最中には誰にも見えない、というかどこにも存在すらしていなくて、 あーでもないこーでもない、をもちゃもちゃ繰り返した末に、 ほ、と足を着いたところが結果的に着地点になるだけなのだろうという気がします。 台本を書いていると(稽古も)、 初めに思い描いていた流れからはどうしたって外れていってしまうことが多く、 でもそういうときの方が楽しかったりして、 (少なくとも書くこと自体は。そしてパフォーマンスとして観る側にとってもそうであって欲しい、し、そうだと思う) すでに分かっていることをやってもつまらないので、 自分自身も分からない部分へ踏み込んでいくということがしたい。 そういうところにしかこんなことをやる価値はないんじゃないかという気がする。 話がうまくつながっていませんが、 少し前まで、 例えば面白いお芝居を見て、 面白いと思って、 だけど、どうしてそうなっているのかが分かれば自分にもそれが作れるのじゃないかと思っていた節があります。 本当に、馬鹿、不遜です。 恥ずかしい、近くの人に申し訳ない。 (でも思い返してみれば、私はそういうことが勉強できると思って(というか、もっと正直言えば教えてもらえると思って)表象文化論に行ったような気もします) だけど、他人の作るものは、私にはどうやったって作れないんだということがやっと分かって、 やっと本当にいいなぁと思えるようになって、 これは、尊重、敬意という言葉がしっくりくるような感じです。 そいでもってやっと、私には何が出来るんだろうかと、考えています。 「お客さんを楽しませようとか、ウケようとか考えないわけ?」 と批判的に、言われることがあって、 確かに以前は考えなくてよいと考えていた頃もあったのですが、 今は自分としては考えているつもりで、 どうしたらいいだろう、どうしたら面白いだろう、と考えますが、 でも考えたって、思い通りにそっちに持っていけるわけではなく、 出来てみて、「こうしか出来なかった・・・」と思います。 でもそのままでいいと思っているわけではないのです。 まとまらないままですが、谷川俊太郎さんのエッセイ『「ん」まであるく』から引用 たとえ素裸で立っているとしても、人は表情で自分を飾る、髪形で、また立つ背景で飾る、飾らざるをえない。たとえたったひとりでいるとしても、人は他者の視線を意識せずにいることはできない。人は自分のうちにすでに他者をもっているから。内なる性、内なる超越者、内なる他人―それらに向かって、人はおずおずと自分を差し出す。気に入られたい、交流したい、こっちへ向いてもらいたいと、孤独と沈黙を怖れ、不安に息をつまらせて、人は飾る、飾りつづける。
by hummingbird08
| 2010-07-02 11:09
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